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わが身に振りかかってくる一切の出来事は、自分にとっては絶対必然であると共にまた実に絶対最善である(森信三)


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[再掲]竹島の日


わしが愛国学園園長真・愛国無罪である。
今日は「竹島の日」です。

20070122144045

3c359932


 
Wikipedia/竹島の日

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%97%A5


<引用開始>
竹島の日(たけしまのひ)とは、竹島が島根県に編入された2月22日を記念する日である。1905年(明治38年)のこの日、島根県告示第40号に基づき、島根県知事が所属所管を明らかにしている。

2005年は日本が竹島を編入して100周年にあたるため、「竹島の日」の制定に関する条例が島根県議会で3月16日に可決、制定された。竹島が韓国により不法占拠されていることや、韓国による漁業協定への違反、協定の定める操業認可海域のうち韓国側海域において、頻繁に日本側が事実上操業できなくなること(これは韓国軍による威圧行為が原因となっている。)への認知を深めてもらうことを目的としている。
<引用終了>

竹島は今でこそ韓国に不法占拠されていますが日本の領土であることは国際的にも認知されています。

本校/ラスク書簡を突き付けろ!竹島からの退去を命令しろ!

http://blog.livedoor.jp/school_for_patriot/archives/50683342.html


<引用開始>

ついに「竹島は日本の領土である」と記された「ラスク書簡」の原文画像が公開された。

livedoorニュース/竹島は日本のものであると記された『ラスク書簡』の原文画像が公開される

http://news.livedoor.com/article/detail/3743702/

その画像がこれだ。

ラスク書簡

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の領土は日本列島の四つの主要な島、本州、九州、四国、北海道と

INLAND SEA(瀬戸内海)の島、対馬、

竹島(Liancourt Rocks)、

隠岐列島、佐渡、奥尻、礼文、利尻と

対馬、竹島

礼文島の(日本本土から)最も遠い海岸をつないだ線の内側にあるすべての日本海の島、

(中略)

を含むすべての隣接する島々で構成されなければならない。

<引用終了>


薄汚い欲望に溺れた韓国によって強奪された竹島は我々日本国民の手で必ず奪い返さなければなりません

こちらのHPをご覧いただき、応援メールを送るか、できれば活動に参加していただくようよろしくお願いします。
島根県:Web竹島問題研究所 かえれ島と海


http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/

 

ラスク書簡の原文という

 

動かぬ証拠

 

がネット上で世界中に公開され、世界中の人間が

「竹島は日本の領土である」

と知った以上、韓国に対し何らの

遠慮呵責も必要ない!

 

竹島返還交渉にあたっては

常に

我々が優越する立場

であることを認識させる

よう心がけること。

 

絶対に謝罪してはいけない。

 

「自分の立場だけでなく、相手の言い分も聞いてみようw」などと

情を移さぬこと

 

「いっそのこと島を譲ってしまい、『友情島』にしてもらうw」などの

裕福温厚なる態度を

示してはならない

 

交渉の際は

ラスク書簡という動かぬ証拠

を提示し、

怒声大音声をもって喝破せよ。

 

正当なる措置であっても

竹島を損ねた場合、恨みに思い

戦争・工作を

仕掛けてくる場合がある

ので、アメリカとの密接なる関係を示し

威嚇すること

 

差別、歴史認識等の

暴言に決して怯まぬこと

証拠を挙げ

大音声で論破し、

 

沈黙せしめよ

 

 

韓国には強気で押せ

 
 
抵抗する場合は大声で
 
竹島からの退去を
 
命令しろ
 
 
 
「竹島は韓国領である」
 
などと同じ世迷言をくり返す場合、
 
犬のように 
 

何回でも


同じ様に叱れ。 
 
 
 
竹島が韓国領である
 
理由は聞くな。
 
 
どうせ
 
大したことは言っていない
 
 
 
 
日本政府よ
 

韓国に

ラスク書簡を突き付けろ!

 

竹島からの

韓国警察の退去を

 

命令しろ!

 

もし韓国が抵抗するなら

朝鮮半島を李朝末期の状態

にしてでも

竹島を奪い返せ!

 

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[再掲]日露戦争開戦の日


 

わしが愛国学園園長真・愛国無罪である。

今日は何度も当学園で取り上げてきた「奉天会戦」「日本海海戦」「二百三高地」「黒溝台会戦」が行われた「日露戦争」が始まった日です。

今から106年前の今日、明治37年(1904年)2月8日、旅順港内のロシア艦隊を日本海軍の駆逐艦が奇襲攻撃したのが日露戦争の始まりです。

ではなぜ日本は日露戦争を戦うことになったのか?

Wikipedia/日露戦争

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89

<引用開始>

背景

ロシアと日本の利権争いの場となった大韓帝国

大韓帝国冊封体制から離脱したものの、満州を勢力下においたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。また日本は開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするため、1904年2月23日に日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結し、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。日本政府による推薦者を加えて影響力を確保し、他国への便宜供与を制約しようとの試みである。他方で閔妃によってロシアに売り払われた関税権を買い戻すなど、その影響力を増していった。一方、高宗は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。

日英同盟

ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約破棄ベルリン条約の締結に成功した。これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。

近代国家の建設を急ぐ日本では、朝鮮半島を自国の独占的な勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていた。朝鮮を属国としていたとの日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順大連1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めていった。

1900年にロシアは清で発生した義和団事変(義和団事件)の混乱収拾を名目に満州へ侵攻し、全土を占領下に置いた。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図ったロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、1902年に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。日本政府内では小村寿太郎桂太郎山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文井上馨ら戦争回避派との論争が続き、民間においても日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書(七博士建白事件)や、万朝報紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論が発生していた。

1903年4月21日京都にあった山縣の別荘・無鄰庵で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰庵会談」が開催されたが物別れに終わった。桂は後にこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、後の日露交渉に反映されることになる。

直前交渉

1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。さらにニコライ2世アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった

セルゲイ・ヴィッテ首相は、戦争によって負けることはないにせよロシアが疲弊することを恐れ、戦争回避論を展開したが、これは皇帝達によって退けられた。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。

日本側では、この提案では朝鮮が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が複線化されるとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。

ロシア側にとって、この通告がいかに突然であったかを知るには、ローゼン公使の対応を見てもわかる。ローゼンは戦争が起きるとは想像していなかったらしく、この国交断絶通告を受け取った際、「この通告が戦争を意味するものか」と小村寿太郎に聞いた。ニコライ2世も「わがロシア帝国と日本との戦争は有り得ない。なぜなら朕がそれを欲しないから」といい、日本は戦争を決断しないだろうと考えていたという。これに対し小村寿太郎は、「この行為は戦争を意味するものではない」と返答。(司馬遼太郎坂の上の雲』より)この返答は、国際法上の解釈から言えば違法と言えるものではないが、この状態ではどの外交ルートもあるわけではなく、実質的には戦争開始の通告である。かくしてニコライ2世は、1904年2月10日、アレクセーエフに対し日本との戦闘行為を容認。戦争を決断した。

<引用終了>

 

 

当時の日本の首脳部はロシアが満洲、朝鮮を支配下に置けば日本が直接脅威に晒され、また、問題を先送りするとシベリア鉄道が複線化されて輸送力が倍になり、ロシア軍の極東への展開が容易になり、日本の独立が危うくなると考えてロシアとの開戦を決断しました。

日本はこの戦争での数々の戦いに辛くも勝利し、アメリカに講和を仲介してもらってポーツマス講和条約を日本に有利な形で締結することによって独立を確固たる物にし、欧米列強と対等の地位を得ました。

日露戦争の勝利があるからこそ今の日本の独立、繁栄があるのです。

本校/日本史上最大の危機! 黒溝台会戦開始の日

http://blog.livedoor.jp/school_for_patriot/archives/50767914.html

でも書いたとおり、

この戦いに日本が敗れれば朝鮮、満洲、モンゴル、ウイグル、華北は確実にロシア帝国の領土となり、

日本はロシアの属国になり下がっていたでしょう。

チェチェン南オセチアのように国土が絶え間ない戦火に焼かれ、人々が殺戮や暴力におびえるような国になっていたかもしれない。

それを思えば日露戦争で戦い、亡くなられた英霊の方々に感謝の気持ちがわき上がってくるはずです。 

日露戦争で戦い、亡くなられた英霊の方々

 

敬礼!

 

 

 

 

 

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[再掲]北方領土の日


わしが愛国学園園長真・愛国無罪である。

今日は「北方領土の日」です。

Wikipedia/北方領土の日

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%81%AE%E6%97%A5

<引用開始>

制定までの経過

昭和50年代に入り、北方領土返還運動の高まりから、青年、婦人、労働の各団体において「北方領土の日制定」を求める決議が次々と行われるようになった。そして、1980年(昭和55年)には、国会の衆参両院において「北方領土の日」の設定を含む「北方領土問題の解決促進に関する決議」が全会一致で決議されたのを始め、全国の都道府県議会市町村議会全国知事会全国市議会議長会全国市長会全国町村会などにおいても同様な決議が行われるようになった。

こうした事を背景に、総務庁(当時)において「北方領土の日」の設定について検討することとし、広く関係各層の意見を聞くために同年12月、有識者らからなる「『北方領土の日』に関する懇談会」が開催された。この懇談会の答申を受け、1981年(昭和56年)1月6日に毎年2月7日を「北方領土の日」とすることが閣議了解によって決められた。

由来

「北方領土の日」をいつにするかについては、ソ連択捉島への進駐を開始した8月28日などいくつかの候補があったが、最終的に、1855年安政元年)に日本とロシア(当時は帝政ロシア)との間で最初に国境の取り決めが行われた日露和親条約が結ばれた2月7日に決まった。

行事

閣議了解では「この日を中心として全国的に集会、講演会、研修会等の行事を行い、この問題に対する国民の関心と理解を更に深め、全国的な北方領土返還運動の一層強力な推進を図る」とされている。

具体的には毎年、東京都内において青年、婦人、労働などの全国組織からなる実行委員会によって「北方領土返還要求全国大会」が、内閣総理大臣外務大臣など政府代表、衆参両院代表や各政党代表らの出席のもと開催されている。また、全国各地でも北方領土返還要求運動都道府県民会議によって、都道府県民大会や講演会、パネル展などが企画実施されている。

<引用終了>

 

薄汚い欲望に溺れた旧ソ連によって強奪された北方領土は我々日本国民の手で必ず奪い返さなければなりません。

こちらのHPをご覧いただき、応援メールを送るか、できれば活動に参加していただくようよろしくお願いします。

北方領土復帰期成同盟HP

http://hoppou-d.or.jp/

 

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日本史上最大の危機! 黒溝台会戦開始の日 第二部


わしが愛国学園園長真・愛国無罪である。
秋山支隊の奮闘ぶりを再現した画像とAmazonが前エントリーに入りきらなかったのでここに
「日本史上最大の危機! 黒溝台会戦開始の日 第二部」
と銘打ち、それらを掲載する。
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[再掲]日本史上最大の危機! 黒溝台会戦開始の日


わしが愛国学園園長真・愛国無罪である。

皆さん、今日は何の日か知っていますか?

今日は「黒溝台会戦」開始の日です。

たぶんほとんどの人はこの戦いのことを知らないでしょう。

だが、園長がタイトルに

「日本史上最大の危機!」

と付けたのはダテではありません。

この戦いに日本が敗れれば朝鮮、満洲、モンゴル、ウイグル、華北は確実にロシア帝国の領土となり、

日本はロシアの属国になり下がっていたでしょう。

 

ではこの戦いはどんな戦いだったのでしょうか?

今から106年前の明治37年(1904年)、ロシア帝国の極東進出に脅威を抱いた日本はロシア帝国と戦争を始めました。

これを日露戦争と言います。

開戦当初は戦場である朝鮮・満洲に近い日本が有利に戦いを進めましたが、日本の8倍の国力・兵力を持つロシアがヨーロッパから満洲に援軍を送り続けると次第に兵力で日本を圧倒するようになりました。

 

以下

Wikipedia/黒溝台会戦

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%BA%9D%E5%8F%B0%E4%BC%9A%E6%88%A6

より

<抜粋> 

Map_of_Battle_of_Sandepu

 

 

 

 

日本軍の守備陣形と秋山少将の戦術

秋山支隊とは秋山好古少将率いる騎兵支隊で、騎兵第1旅団習志野)を中心とした歩騎砲の3兵種を備えた複合型騎兵集団であり、奥保鞏大将率いる第二軍に属し、日本軍最左翼を守備していた。しかし、その陣容は40km余りある正面をわずか8000人程度の人員で守備するという心細いものであった。

これをどうしても守備しなければならないとなると、どうしてもどこかに無理が起こるようになる。そこで、「日本騎兵の父」と呼ばれた秋山少将は、拠点防御方式という騎兵としては相容れない考えの戦術を採用することになる。

この秋山少将の拠点防御方式には4大拠点があり、西部側より黒溝台に種田支隊、沈旦堡に豊辺支隊、韓山屯に三岳支隊、李大人屯に秋山支隊主力であったが、秋山好古少将は自分の司令部を奥第二軍との連絡のために支隊の一番右側に置き、また、戦力としても各師団に配属されている師団騎兵(連絡用)をわずかに率いているだけで、もともと自分の率いていた騎兵第1旅団を自分の手元には置かず、ロシア軍が突破するならその進路になりそうな沈且堡に主力を置き、豊辺大佐に指揮を執らせていた。

満州軍総司令部の錯誤

秋山少将は、「敵の前哨活動が活発である。何か大作戦の予兆あり」と満州軍総司令部に対して幾度となく重大な警報が送り続けた。しかし、その警報はことごとく黙殺された。ロシア軍のシベリア鉄道による補給活動は、あまりに活発であったため、その情報は日英同盟の誼もあって、ロンドンのイギリス軍の情報部より日本大使館駐在武官を経由して、列車の運送状況などの細かな情報がふんだんに入り、その情報は地球を半周し、東京大本営を経由して満州軍総司令部の机上にまで届けられた。しかし、その情報も結局黙殺されてしまった

黙殺の理由は「この冬季にロシア軍が大作戦を起こすはずがない」といったものである。

日本の満州軍総司令部の参謀達は、ロシア軍の習性として敵を撃退し、前進した後に必ず踏みとどまって陣地の構築をするという風に見込んでいて、この陣地の構築をすることが非常に困難なこの季節ではロシア軍でさえも攻撃を発起するはずがないと考えていた

しかし、ロシア軍の習性として攻撃を発起するのは、ナポレオンのロシア遠征を見てもわかるように、冬将軍を味方にすることのできる時期であり、この時代から約40年後にナチス・ドイツが反撃されたのも、この時期であった。

さまざまな情報がすべて、ロシア軍の大作戦を予兆するものであるにもかかわらず、満州軍総司令部がこれらの情報に目を向けないという状況において、ロシア軍の大攻勢が実施された。この初歩的な錯誤はのちのちまで大きく響き、日本軍の左翼は全線に渡って、崩壊寸前にまで追い詰められるのである。

会戦開始から一度目の応援

グリッペンベルグ大将が総勢10万人に及ぶ大兵力を率いて、攻勢を開始した際、日本側の満州軍総司令部はこの時点でもまだ威力偵察ぐらいに考えていた。1月22日鳥邦牛にて、騎兵第2旅団将校斥候がロシア騎兵に遭遇し、ほぼ全滅に近い状況が起こっても、それでもまだ威力偵察ぐらいに考え、一応手当てとして、第8師団弘前)を応援にやる程度にとどまった。この第8師団は、師団外の兵力として後備歩兵旅団を付属しており、兵力的には2万人程度のものであった。威力偵察程度に考えていた総司令部は、この第8師団のみで対応できると考えてしまったのである。この弘前第8師団を率いるのは、日本陸軍の最古参の中将であり、維新の幕府軍側の生き残りである立見尚文であった。しかし、この応援が少なすぎた原因のひとつとして当時全日本軍の戦力が枯渇しており、旅順は開城したとはいえ乃木大将率いる第三軍はまだ旅順からの途上にあり、全日本軍の予備軍はこの第8師団しかないという状況でもあった。

立見は1月24日総司令部より準備命令を受け、翌1月25日正午に「黒溝台を救え」という命令の立見が受け取ったときには、黒溝台には地平線を埋め尽くさんばかりのロシア軍が押し寄せていた。秋山少将の4大拠点はどこもロシア軍の重圧を受けており、の中をロシア軍の銃砲弾が飛び交うという状況にあった。

秋山少将ははじめロシア軍の重圧が韓山台あたりに大きくかかってきたため、三岳支隊がいる辺りがロシア軍の攻撃目標と見誤り、隣の沈旦堡の豊辺新作大佐に対し、三岳支隊に応援を出すように指令した。このため豊辺大佐は三岳支隊応援のため、一隊を編成、小池順中佐に指揮させ、応援させることにした。ところが25日夜ごろから沈旦堡付近のほうが戦況として激烈になり、豊辺大佐は後方にいた別系列の後備歩兵第31連隊の小原文平中佐に支援を請い、小原中佐は豊辺大佐支援のため2個中隊を派遣した。

このころ立見中将率いる第8師団は戦線のはるか後方より零下30度近い寒気の中を前線へと駆けつけ、26日夜に大台まで駆けつけた。ここで、第8師団の由比光衛参謀長は救援すべき猛烈な攻撃を受け続けている黒溝台の陣地を捨て後で奪い返すように考案し、秋山少将の指揮下の部隊であったにも拘らず、総司令部の命令で種田支隊を退却させた。しかし、ロシア軍は一度奪った黒溝台陣地を再構築し、ロシア軍の拠点陣地として活用し始めた。このため、第8師団は一度捨てた陣地をまた奪い返さなくてはならなくなった。それでも第8師団は黒溝台を奪い返すために展開をはじめ、それが終わったときにロシア軍が総力を挙げて襲い掛かってきた。このため、第8師団は秋山支隊を救援するどころか、自分たちさえ窮地に陥った。

日本軍の増援投入とロシア軍の撤退

日本軍の満州軍総司令部は、手持ちの兵力(予備軍)が限られていたことと、状況が錯綜し、情勢の把握ができていなかったことから、兵力の逐次投入という戦術上行ってはならないタブーを行なった。まず最初に、救援に送った第8師団がたちまち窮地に陥り、第8師団の参謀長が満州軍総司令部に「聞いてた話と違う」と噛み付いたときから、日本の満州軍総司令部はかなり狼狽した。

この状況において、さらに救援を送りたくとも総予備軍を使い果たしていた日本軍は、やむなく中央部を守備している奥第二軍より木越安綱中将率いる第5師団広島)を26日夜派遣することに決定。さらに、27日日本軍最右翼を守備している黒木第一軍より西島助義中将率いる第2師団仙台)の一部、28日には奥第二軍より大島義昌中将率いる第3師団名古屋)が派遣された。

このように派遣された兵力は4個師団と後備歩兵旅団が1個、砲兵連隊が2個連隊の大規模なものになった。

応援軍は28日朝から、秋山支隊の各拠点に入り、秋山支隊に重圧を与え続けるロシア軍を撃退しだした。28日夜、立見中将率いる第8師団はロシア軍に師団をあげて夜襲を行い、29日朝黒溝台を占領した。しかし逸話に寄れば第八師団部に秋山支隊からきた稲山利通海兵中佐と元々黒溝台に駐屯していた種田支隊の協同奇襲という。だが実際のところ、ロシア軍は28日夜に出された奇妙な退却命令により撤退しただけに過ぎなかった。

 

こうして見ると、ロシア軍10万5千人に対して日本軍8千(秋山支隊、増援を含めて5万4千人)の兵力差もさることながら

情報の軽視

敵に対する固定観念

兵力の逐次投入

連絡の不徹底

といった欠陥を露呈しながらよくこの戦いに勝てたものだと思う。

むしろ

 

奇跡

 

と言っていいだろう。

なぜ日本軍はこの戦いに勝てたのか?

それは秋山支隊がロシア軍の攻勢の兆候を察して直ちに陣地の構築を始めたことと当時の最新鋭兵器である機関銃を11丁(黒溝台の種田支隊に2丁、沈旦堡の豊辺支隊に3丁、韓山屯の三岳支隊に1丁、李大人屯の秋山支隊主力に5丁:坂の上の雲/司馬遼太郎著)保有していたことである。

そして、「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」(野村克也)の言葉通り、ロシア軍にこそ重大な敗因があった。

それはロシア軍の作戦遂行能力の低さと、ロシア軍総司令官クロパトキン大将の将としての資質である。

ロシア軍の作戦遂行能力の低さは

同/同

<引用開始>

ミシチェンコ騎兵支隊の威力偵察

黒溝台会戦前にロシア陸軍の総帥クロパトキン大将は、一大騎兵支隊による偵察行動を試みることになる。

後に「ミシチェンコの8日間」と呼ばれる威力偵察行動がそれである。この威力偵察は、日本軍の敵情を知るとともに日本軍の後方の兵站基地である営口を襲撃し、その地に揚陸されてある武器・弾薬や食料といった後方支援物資を焼き払うことによって、ただでさえ補給に滞りのあった日本軍をさらに窮地に陥れるものであった。

この威力偵察行動を起こすにあたって、クロパトキン大将は1月3日ミシチェンコ中将を奉天にあった司令部に呼び、命令。

ミシチェンコ中将指揮下にある騎兵支隊とは、騎兵72個中隊、竜騎兵4個中隊、砲22門、総勢約1万人という一大騎兵支隊と呼ぶにふさわしい陣容であった。

この騎兵支隊は1月9日、ミシチェンコ中将によって日本軍陣地のはるか後方の営口に向かって進軍を開始。途中日本軍の電柱を倒したり、線路を爆破したりしながら、1月12日夜半目的地である営口に到達し、攻撃を行ったが、満足に目的を果たせないまま、退却を開始した。しかし、当初の目的である偵察においては、大いに目的を達成した。

<引用終了>

 

にもある通り、1万騎もの騎兵を擁しながら動きもしない補給物資を焼き払うことができなかったこと、また地図を見てわかるとおり黒溝台会戦でも秋山支隊の背後を衝くことをせず、正面からぶつかっていることからもそれがわかるだろう。

クロパトキンの将としての資質については自軍が優勢に立たなければ攻勢を行わない慎重居士な点と、予想していない事態になるとうろたえて冷静な判断ができなくなってしまうビビリな点、そして、将としてよりはむしろ官僚向きな保身主義があげられる。

慎重居士な点はクロパトキンが開戦当初、決戦の舞台を奉天ではなくさらに後方の長春やハルビン

05_harubin

 

 

 

 

 

と定め、日本軍の補給路が伸びきるのを待って反撃することを計画していたことでもわかる。

ビビリな点は日露戦争で多く見られたが、黒溝台会戦に限れば戦いの最中に日本軍がロシア軍中央部にほんの少し攻撃を仕掛けただけで黒溝台を攻撃していたロシア第2軍に攻撃中止を命令したことでもわかる。

保身主義はロシア第2軍の攻撃が成功すれば手柄がロシア第2軍司令官グリッペンベルグ大将の物になり、自分が総司令官の座を追われることを恐れてロシア第2軍に攻撃中止を命令したしたことでもわかる。

グリッペンベルグ大将はクロパトキンに攻撃中止を命令されたとき、こう言ったそうだ。

「あの男の本真はわかっている。わしの成功を怖れたのだ。わしがこの作戦に成功すればあの男の地位があぶなくなる。ただそれだけの理由で、ロシヤ帝国の勝利をあの男は大山(巌)に売った」(坂の上の雲/司馬遼太郎

日露戦争の時のロシア軍の最高司令官がクロパトキンでなかったら今頃日本はどうなっていたか?

チェチェン南オセチアのように国土が絶え間ない戦火に焼かれ、人々が殺戮や暴力におびえるような国になっていたかもしれない。

それを思えば黒溝台会戦で戦い、亡くなられた英霊の方々に感謝の気持ちがわき上がってくるはずだ。

 

黒溝台会戦で戦い、亡くなられた英霊の方々

 

敬礼!


 

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