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- Newer : 日本史上最大の危機! 黒溝台会戦開始の日 第二部
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わしが愛国学園園長真・愛国無罪である。
皆さん、今日は何の日か知っていますか?
今日は「黒溝台会戦」開始の日です。
たぶんほとんどの人はこの戦いのことを知らないでしょう。
だが、園長がタイトルに
「日本史上最大の危機!」
と付けたのはダテではありません。
この戦いに日本が敗れれば朝鮮、満洲、モンゴル、ウイグル、華北は確実にロシア帝国の領土となり、
日本はロシアの属国になり下がっていたでしょう。
ではこの戦いはどんな戦いだったのでしょうか?
今から106年前の明治37年(1904年)、ロシア帝国の極東進出に脅威を抱いた日本はロシア帝国と戦争を始めました。
これを日露戦争と言います。
開戦当初は戦場である朝鮮・満洲に近い日本が有利に戦いを進めましたが、日本の8倍の国力・兵力を持つロシアがヨーロッパから満洲に援軍を送り続けると次第に兵力で日本を圧倒するようになりました。
以下
Wikipedia/黒溝台会戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%BA%9D%E5%8F%B0%E4%BC%9A%E6%88%A6
より
<抜粋>
日本軍の守備陣形と秋山少将の戦術
秋山支隊とは秋山好古少将率いる騎兵支隊で、騎兵第1旅団(習志野)を中心とした歩騎砲の3兵種を備えた複合型騎兵集団であり、奥保鞏大将率いる第二軍に属し、日本軍最左翼を守備していた。しかし、その陣容は40km余りある正面をわずか8000人程度の人員で守備するという心細いものであった。
これをどうしても守備しなければならないとなると、どうしてもどこかに無理が起こるようになる。そこで、「日本騎兵の父」と呼ばれた秋山少将は、拠点防御方式という騎兵としては相容れない考えの戦術を採用することになる。
この秋山少将の拠点防御方式には4大拠点があり、西部側より黒溝台に種田支隊、沈旦堡に豊辺支隊、韓山屯に三岳支隊、李大人屯に秋山支隊主力であったが、秋山好古少将は自分の司令部を奥第二軍との連絡のために支隊の一番右側に置き、また、戦力としても各師団に配属されている師団騎兵(連絡用)をわずかに率いているだけで、もともと自分の率いていた騎兵第1旅団を自分の手元には置かず、ロシア軍が突破するならその進路になりそうな沈且堡に主力を置き、豊辺大佐に指揮を執らせていた。
満州軍総司令部の錯誤
秋山少将は、「敵の前哨活動が活発である。何か大作戦の予兆あり」と満州軍総司令部に対して幾度となく重大な警報が送り続けた。しかし、その警報はことごとく黙殺された。ロシア軍のシベリア鉄道による補給活動は、あまりに活発であったため、その情報は日英同盟の誼もあって、ロンドンのイギリス軍の情報部より日本大使館駐在武官を経由して、列車の運送状況などの細かな情報がふんだんに入り、その情報は地球を半周し、東京の大本営を経由して満州軍総司令部の机上にまで届けられた。しかし、その情報も結局黙殺されてしまった。
黙殺の理由は「この冬季にロシア軍が大作戦を起こすはずがない」といったものである。
日本の満州軍総司令部の参謀達は、ロシア軍の習性として敵を撃退し、前進した後に必ず踏みとどまって陣地の構築をするという風に見込んでいて、この陣地の構築をすることが非常に困難なこの季節ではロシア軍でさえも攻撃を発起するはずがないと考えていた。
しかし、ロシア軍の習性として攻撃を発起するのは、ナポレオンのロシア遠征を見てもわかるように、冬将軍を味方にすることのできる時期であり、この時代から約40年後にナチス・ドイツが反撃されたのも、この時期であった。
さまざまな情報がすべて、ロシア軍の大作戦を予兆するものであるにもかかわらず、満州軍総司令部がこれらの情報に目を向けないという状況において、ロシア軍の大攻勢が実施された。この初歩的な錯誤はのちのちまで大きく響き、日本軍の左翼は全線に渡って、崩壊寸前にまで追い詰められるのである。
会戦開始から一度目の応援
グリッペンベルグ大将が総勢10万人に及ぶ大兵力を率いて、攻勢を開始した際、日本側の満州軍総司令部はこの時点でもまだ威力偵察ぐらいに考えていた。1月22日鳥邦牛にて、騎兵第2旅団の将校斥候がロシア騎兵に遭遇し、ほぼ全滅に近い状況が起こっても、それでもまだ威力偵察ぐらいに考え、一応手当てとして、第8師団(弘前)を応援にやる程度にとどまった。この第8師団は、師団外の兵力として後備歩兵旅団を付属しており、兵力的には2万人程度のものであった。威力偵察程度に考えていた総司令部は、この第8師団のみで対応できると考えてしまったのである。この弘前第8師団を率いるのは、日本陸軍の最古参の中将であり、維新の幕府軍側の生き残りである立見尚文であった。しかし、この応援が少なすぎた原因のひとつとして当時全日本軍の戦力が枯渇しており、旅順は開城したとはいえ乃木大将率いる第三軍はまだ旅順からの途上にあり、全日本軍の予備軍はこの第8師団しかないという状況でもあった。
立見は1月24日総司令部より準備命令を受け、翌1月25日正午に「黒溝台を救え」という命令の立見が受け取ったときには、黒溝台には地平線を埋め尽くさんばかりのロシア軍が押し寄せていた。秋山少将の4大拠点はどこもロシア軍の重圧を受けており、雪の中をロシア軍の銃砲弾が飛び交うという状況にあった。
秋山少将ははじめロシア軍の重圧が韓山台あたりに大きくかかってきたため、三岳支隊がいる辺りがロシア軍の攻撃目標と見誤り、隣の沈旦堡の豊辺新作大佐に対し、三岳支隊に応援を出すように指令した。このため豊辺大佐は三岳支隊応援のため、一隊を編成、小池順中佐に指揮させ、応援させることにした。ところが25日夜ごろから沈旦堡付近のほうが戦況として激烈になり、豊辺大佐は後方にいた別系列の後備歩兵第31連隊の小原文平中佐に支援を請い、小原中佐は豊辺大佐支援のため2個中隊を派遣した。
このころ立見中将率いる第8師団は戦線のはるか後方より零下30度近い寒気の中を前線へと駆けつけ、26日夜に大台まで駆けつけた。ここで、第8師団の由比光衛参謀長は救援すべき猛烈な攻撃を受け続けている黒溝台の陣地を捨て、後で奪い返すように考案し、秋山少将の指揮下の部隊であったにも拘らず、総司令部の命令で種田支隊を退却させた。しかし、ロシア軍は一度奪った黒溝台陣地を再構築し、ロシア軍の拠点陣地として活用し始めた。このため、第8師団は一度捨てた陣地をまた奪い返さなくてはならなくなった。それでも第8師団は黒溝台を奪い返すために展開をはじめ、それが終わったときにロシア軍が総力を挙げて襲い掛かってきた。このため、第8師団は秋山支隊を救援するどころか、自分たちさえ窮地に陥った。
日本軍の増援投入とロシア軍の撤退
日本軍の満州軍総司令部は、手持ちの兵力(予備軍)が限られていたことと、状況が錯綜し、情勢の把握ができていなかったことから、兵力の逐次投入という戦術上行ってはならないタブーを行なった。まず最初に、救援に送った第8師団がたちまち窮地に陥り、第8師団の参謀長が満州軍総司令部に「聞いてた話と違う」と噛み付いたときから、日本の満州軍総司令部はかなり狼狽した。
この状況において、さらに救援を送りたくとも総予備軍を使い果たしていた日本軍は、やむなく中央部を守備している奥第二軍より木越安綱中将率いる第5師団(広島)を26日夜派遣することに決定。さらに、27日日本軍最右翼を守備している黒木第一軍より西島助義中将率いる第2師団(仙台)の一部、28日には奥第二軍より大島義昌中将率いる第3師団(名古屋)が派遣された。
このように派遣された兵力は4個師団と後備歩兵旅団が1個、砲兵連隊が2個連隊の大規模なものになった。
応援軍は28日朝から、秋山支隊の各拠点に入り、秋山支隊に重圧を与え続けるロシア軍を撃退しだした。28日夜、立見中将率いる第8師団はロシア軍に師団をあげて夜襲を行い、29日朝黒溝台を占領した。しかし逸話に寄れば第八師団部に秋山支隊からきた稲山利通海兵中佐と元々黒溝台に駐屯していた種田支隊の協同奇襲という。だが実際のところ、ロシア軍は28日夜に出された奇妙な退却命令により撤退しただけに過ぎなかった。
こうして見ると、ロシア軍10万5千人に対して日本軍8千(秋山支隊、増援を含めて5万4千人)の兵力差もさることながら
情報の軽視
敵に対する固定観念
兵力の逐次投入
連絡の不徹底
といった欠陥を露呈しながらよくこの戦いに勝てたものだと思う。
むしろ
奇跡
と言っていいだろう。
なぜ日本軍はこの戦いに勝てたのか?
それは秋山支隊がロシア軍の攻勢の兆候を察して直ちに陣地の構築を始めたことと当時の最新鋭兵器である機関銃を11丁(黒溝台の種田支隊に2丁、沈旦堡の豊辺支隊に3丁、韓山屯の三岳支隊に1丁、李大人屯の秋山支隊主力に5丁:坂の上の雲/司馬遼太郎著)保有していたことである。
そして、「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」(野村克也)の言葉通り、ロシア軍にこそ重大な敗因があった。
それはロシア軍の作戦遂行能力の低さと、ロシア軍総司令官クロパトキン大将の将としての資質である。
ロシア軍の作戦遂行能力の低さは
同/同
<引用開始>
ミシチェンコ騎兵支隊の威力偵察
黒溝台会戦前にロシア陸軍の総帥クロパトキン大将は、一大騎兵支隊による偵察行動を試みることになる。
後に「ミシチェンコの8日間」と呼ばれる威力偵察行動がそれである。この威力偵察は、日本軍の敵情を知るとともに日本軍の後方の兵站基地である営口を襲撃し、その地に揚陸されてある武器・弾薬や食料といった後方支援物資を焼き払うことによって、ただでさえ補給に滞りのあった日本軍をさらに窮地に陥れるものであった。
この威力偵察行動を起こすにあたって、クロパトキン大将は1月3日ミシチェンコ中将を奉天にあった司令部に呼び、命令。
ミシチェンコ中将指揮下にある騎兵支隊とは、騎兵72個中隊、竜騎兵4個中隊、砲22門、総勢約1万人という一大騎兵支隊と呼ぶにふさわしい陣容であった。
この騎兵支隊は1月9日、ミシチェンコ中将によって日本軍陣地のはるか後方の営口に向かって進軍を開始。途中日本軍の電柱を倒したり、線路を爆破したりしながら、1月12日夜半目的地である営口に到達し、攻撃を行ったが、満足に目的を果たせないまま、退却を開始した。しかし、当初の目的である偵察においては、大いに目的を達成した。
<引用終了>
にもある通り、1万騎もの騎兵を擁しながら動きもしない補給物資を焼き払うことができなかったこと、また地図を見てわかるとおり黒溝台会戦でも秋山支隊の背後を衝くことをせず、正面からぶつかっていることからもそれがわかるだろう。
クロパトキンの将としての資質については自軍が優勢に立たなければ攻勢を行わない慎重居士な点と、予想していない事態になるとうろたえて冷静な判断ができなくなってしまうビビリな点、そして、将としてよりはむしろ官僚向きな保身主義があげられる。
慎重居士な点はクロパトキンが開戦当初、決戦の舞台を奉天ではなくさらに後方の長春やハルビン
と定め、日本軍の補給路が伸びきるのを待って反撃することを計画していたことでもわかる。
ビビリな点は日露戦争で多く見られたが、黒溝台会戦に限れば戦いの最中に日本軍がロシア軍中央部にほんの少し攻撃を仕掛けただけで黒溝台を攻撃していたロシア第2軍に攻撃中止を命令したことでもわかる。
保身主義はロシア第2軍の攻撃が成功すれば手柄がロシア第2軍司令官グリッペンベルグ大将の物になり、自分が総司令官の座を追われることを恐れてロシア第2軍に攻撃中止を命令したしたことでもわかる。
グリッペンベルグ大将はクロパトキンに攻撃中止を命令されたとき、こう言ったそうだ。
「あの男の本真はわかっている。わしの成功を怖れたのだ。わしがこの作戦に成功すればあの男の地位があぶなくなる。ただそれだけの理由で、ロシヤ帝国の勝利をあの男は大山(巌)に売った」(坂の上の雲/司馬遼太郎)
日露戦争の時のロシア軍の最高司令官がクロパトキンでなかったら今頃日本はどうなっていたか?
チェチェンや南オセチアのように国土が絶え間ない戦火に焼かれ、人々が殺戮や暴力におびえるような国になっていたかもしれない。
それを思えば黒溝台会戦で戦い、亡くなられた英霊の方々に感謝の気持ちがわき上がってくるはずだ。
黒溝台会戦で戦い、亡くなられた英霊の方々に
敬礼!
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なるほど
01/25
07:48
勉強になります。
ランクリ
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